「ありのままという強さ」
現象の中では、
時にネガティブに見えること、
時にポジティブに見えること。
この両方が存在しますが、
このどちらともが、ありのままの姿です。
例えば、前向きな情報を得た時。
私たちは、良い出来事があったことを喜びますが、
この良い出来事から、
待っていなかった別の情報が運ばれてくれば、
今度は悪いことが起きたと苦しみます。
喜びと呼ばれたそれは、あっという間に
苦しみへと移り変わっていきました。
このことから分かるのは、
観るものの判断によって呼び名は変われど、
意識上に現われた出来事の全てが、
とあるひとつの表現であることには
変わり無いということです。
だとすれば、
この世界には、ありのままという完璧さを
上回る何かがあるのでしょうか。
ありのままという強さを、
越える強さはあるのでしょうか。
そもそも、
どこを見ても
ありのままでしかない世界に、
自分で選べる未来があるという考えから、
苦しみは生れています。
自分で選べるということは、
失敗も成功も選べるということ。
責任のすべてはこの自分にあるので、
私たちはこのプレッシャーにとことん
疲れているのであって、
人生という時の流れが重荷なわけでもなければ、
この世界でのやり繰りや、
対象に苦しめられているわけでもありません。
自分で何とか出来る領地にいると勘違いして、
努力が実になると信じていること自体が、
重荷となっているだけです。
私の意識は、常にこのことに気づいているので、
どんな表現の中でも重荷とはなりません。
私はこの肉体を通して、雲の様に流れゆく表現を
感じている者ではありますが、
同時にその世界に生きている“誰それ”でもないことを
明確に見ています。
心眼を通して、よく観察してみてください。
世界の明かりは、「いま」という目の前にだけしか、
点いていません。
ですから、暗闇がどこかに在るのではなく、
明かり(意識)の点いていないところが自動的に
暗闇(無知)と呼ばれます。
暗闇(無知)は、単に意識(本質)の明かりが
影となってしまっている場所なので、
そこでは目に見える情報だけが全てで、
姿かたちが実体に見えます。
つまり、それぞれの肉体の気質によって、
喜びや悲しみなどの自然な反応は起こり、
これらのありのままを意識が感じてはいますが、
実体としての苦しみがどこかにある訳では無いので、
対応は起これど、相手にする必要がありません。
私たちには、越えなくてはならない山はありません。
ですが同時に、越えてはならない山もありません。
どこからどこまでも、束縛ひとつありません。
ありのままの自分と、今目の前にある世界。
これで、全てです。
何も知り得ず‐誰にもなれず‐すべてを含むが、そのすべてを含まない。
この様な何も無さが、本来の私たちです。
そうであれば、ありのままという強さは、
表現の中の私たちにとっての一番の味方となります。