「生と死が混ざり合う」
見る者によって、全く違う印象を残す世界に、
決まった何か‐誰かがどこに存在するのか。
していないんです、何も。
私は私が表現する世界上で誰にでもなり得る。
という多方からの可能性を含む姿が、
ただありのままに見られるとき、
純粋な世界は、そのままの世界として目撃されます。
器量や容姿的な違い等において、
誇りや劣等に感じることも消え去り、
この世界に現われるすべてが私。
他の言い方では、この世界のすべてが、
意識上に現われた全く同質のものという理解です。
衣服を身に着けているのは人間だけで、持ち物を保持したり、
ことばなどの補助ツールも人間独自のものです。
では、形の違いを識別しているこれらの看板を外した時、
そこに何が見えるでしょうか。
例えば、日本では震災が多く、
不安や恐れを生みますが、
何も所持していなければ(身体を含め)、
恐れは起こり得ないので、
私たちがこれほどまでに震災‐死と向き合う事を恐れるのは、
目に見えるもの‐姿形を失うと感じるからです。
加えて震災の場合は、
予測や制御が不能な自然の力によってです。
この諦める他ない状況下では、
計り知れない恐れと同時に、
受け入れるしかないという覚悟のカプセルも手にします。
私はこれを、個人的に繰り広げていた世界から、
一体性へと舞台替えが起こるときの状況と、
とても良く似通っていると感じています。
個人という人格が、「死」と混ざり合うという状態は、
自身だと認識していたもの。
そして、自身が守るべきものと認識してきたものから
手を離す覚悟が決まる時、
そこで何が見えるか。ということなのです。
諦めざるを得ないという強烈な激震によって
あぶり出されるのは、何か。
これは、身体と一体化している“私‐他者”としての感覚です。
恐れ震えているのは、紛れもなく、肉体と一体化した
意識そのものです。
もっと言って、
感覚としての“私”を辿っている意識自身が、
消えゆくことを恐れる感覚を感じているのです。
これは私たちが、身体を含めたこの世界での
現象に執着し、如何に物質を信頼しきっているか。
という証明に過ぎません。
あぶり出されたその瞬間は、それを目撃する意識として。
それが自身では無いことを明確にすることができます。
守る「世界」が夢同等であることを見抜くと、
生きる事は単純になります。
生きなくてはならない。という傲慢さは消え、
生かされているという謙虚さが正面となります。
震災や死、崩壊が私たちの心に残すものは、
決して恐れや苦しみだけではありません。
全てが同じ現われだという気づきを広げる機会。
皆、全く同じ土台であることを知る
貴重な機会ともとれるのです。
つまり一言では、
外側に神を見ている限り、
内側の神は絶対にその姿を顕さないのだから。