Fusion to Zero

「無へとの融合」 

見た目や生き方さえ違えど、

現象の全て、
私たちは皆たったひとつ。

全く同じ由来で、

実質には何ら変わりがありません。

私たちの纏っている人間という肉体で話せば、

数えきれないほどの違った組み合わせから起こる
生まれ持った気質‐

どの様な両親から生まれ育ったかによる
環境から構築されていく条件付けにより、

それぞれが、“とある人格”として
意識に営まれている個体であるものの、

自身を含め、どこで出会う肉体であろうと/現象であろうと、

意識上の現われとしては全て同じで、

明らかにそれぞれが、
ひとつの可能性に沿った働きをしています。

現象に違いをみているのは、
見た目を識別するという知性感覚の中でのみですが、

そこでは、愛という言葉に当てはまらない行為も起これば、
豊さに枯渇する者もあります。

なので、この世界のすべてが愛と豊かさです。
と聞かされてピンとことないのも当然で、

この知的感覚の中に限っては、
形としての平等さは全く無いとも言えます。

愛や豊かさ、平等などの話は、
現象世界を超えた地点での話であり、

形で求められる答えではありません。

ですから、肝心なところは、

この肉体‐もしくは存在の感覚は、
現象を選び、その流れをコントロールしていない。
ということに集結しています。

右に進むことを選んだ誰か。
今はどちらにも進まないことを選んだ誰か。

どこに居たでしょうか。

常に今この瞬間だけが続くこの世界で、
ある選択は起こり続けますが、

そうなることを選んだ誰かは、
初めから、どこにも居ませんでした。

個人という感覚の維持する希望的観念だけが、
この世界を複雑に見せる要素で、

この世界が単純にならない理由です。

私たちがこの世界を認識できるということは、
特別な理由など一切なしに、

“そこに意識があるから。”というだけのことです。

身体がある内は、この意識という状態が、

楽しみ‐苦しみ‐喜び‐痛み‐などを感じています。

加えて、この意識の働きは意図されて
芽生えたわけではありません。

始まりはただそこで雲が流れていくように、
そこに起こりました。

そして根源的進化‐無知を見るということも、

否が応でもいづれは起こることであり、
自然とやってくることです。

ここでの話のすべては、
直球に意識へと語り掛けているので、

思考‐考えるこころとしての個人の人格が
理解できることはありませんが、

意識に触れた真実が引き金となって、
じわじわと浸透するように段階を持ち、

常にどこかと繋がっていると思って来た私たちの存在は、

誰も、どこにも、生まれていない。
最初から切り離されてもいない。
という衝撃的な真実を知ることによって打ち砕かれます。

これはある意味で、この世界での見える形、みえない形、
どちらともの一切のサポートを期待しない。

そして関連性の全てが断ち切られる。
ということでもありますが、

そこから見る世界の何とも言えない快適さ、明解さには
どんなブラフも触れることができません。

なぜなら、何の関連性も無いからです。

ほんとうに単純に、

いま見えていることだけだからです。

そしてこの身体が役割を終えるとき、

それを維持してきた意識が、
本来の私である源へとその感覚を沈め、

意識は無へと融合するのです。

裏も表も無い、それが究極の地であり、

私たちの真の姿です。

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