「根本的な平和」
多くの人は、世界が平和で、
皆が愛として生きて欲しいと強く願っていますが、
自分自身の心に平和をみようとはしていません。
真実を見れば、心の反映であるこの空間に、
どうやって自分と関わりの無いことを表現できるというのでしょうか。
“私(本質)の表現”である「大宇宙」という作品上に起こることの全てを、
どうしたら“他の誰か”の行いとして見れるのでしょうか。
ここでは、誕生があれば死が同時に存在し、
平和があれば争いも存在します。
争いが悲劇を生むことは明確ですが、
これも、平和の片割れとなる表現で、
表と裏が二つでひとつ。それがこの相対の世界ですから、
どちらかひとつに切り分けるということが不可能です。
常に変動する現象世界はこれまで通り、
時としてプラスに見える行いが、マイナスに見えることも運び、
又ある時は、マイナスに見える行いがプラスとみえることを運び、
バランスの中で少しずつ変容していきます。
誰一人として操縦していない変容の一コマを、
進みゆくままに流れているのが、
それこそこの肉体としての私たちでもあります。
今はまだ端くれにしか見えない織物も、
時を掛けることで、いつかはその絵柄を現します。
そしてこれが、この世界の美しさであり、ある種の尊さです。
ですから本質的な救いとは、
世界(表現)を良くしようとすることではありません。
表現されるすべての存在がただ単に、
表と裏どちらともの要素が含まれていることを見て、
このどちらも私たちと同じ由来であることを知る。
すると、これまでとは全く違った景色が
見えてくるのではないでしょうか。
ここで話していることは、何かを得るとか、変容するとか、
生まれ変われるといった更なる束縛ではなく、
私たちは、私たちが感じているよりももっと自由で、
もっと単純な世界(外観)で、
たったひとつの本質に包み込まれていることを見る。
ただそれだけです。
ただそれだけのことですが、
姿形としての『私』という幻想の煙が
完全に消えた時に見せられることは、
行為者のいない世界です。
行為者のない世界には、結果や目的が求められないので、
そこに現われる表現をただ楽しみ、
流れゆくひと時の空間を“目撃する”ことだけが起こります。
意味も目的もない、出発地点も到着地点もない。
ここはただ、
「空間と時の流れという額縁」の中に繰り広げられた、
とても美しい芸術作品だったという理解です。
これが根本的な平和と幸福に近しき描写です。