「極めて単純な空間」
思考と一体化した“私”が、
何か素晴らしいことを得られるという
目標と確信をもって、自由‐解放を求め、
現象世界という表現への深い興味が、
そのコースを進み、
いくつか明確になったことがあります。
この探求心(もしくは人生)は、私の中に自己発生し、
ひとりでにその働きを為して、
ひとりでに展開させているということ。(人格の不在)
そしてもう一つは、
何にも頼らずに、それだけで独り立ちをしている
すべての源‐永遠と呼べるそれは、
そこから映し出された世界の住人によって、
実在の永遠を証明し、明白にすることを
特別求めている訳でないということ。
これは、すべての行いに対して言えることですが、
そうなればそうなれで、それも良し。
選ばれて始まったでもなく、選んで始まったでもなく、
ただしずかに、ひとりでにそうなったという理解です。
(因果関係の不在)
そうであれば、
この世界を生きる私たちが考えている様な
後盾、バックステージ、次のステップ、計画、
良くしなくてはならない何かも、すべて想像上でのこと。
現象世界という限られた場‐空間に、
目の前にいま見ているだけの、
極めて単純な空間が、ここにある。
それで全てです。
そんなことで、ここでは、
この身体が終焉を迎えるまでの束の間、
一人の誰かという人物を前提に、
いろんな方向からの感覚を感じるこの空間で、
楽しみのときは楽しみ、
苦しみのときは苦しみ、
喜びのときは喜ぶ。
という、何の特別感も持たない事を伝えています。
ここでの“私”はその身体の持ち合わせた気質上、
何を差し置いても根源を知りたい
という強い想いがその独自なコースを辿って、
そこなりの結論へ達しましたが、
一体性を生きるということは、
自分の存在に加えて、
自分の中に見ている最高位の存在や、
形として目に見えるもの、見えないもの両方の
拠り所の不在をも、揺ぎ無く知ることでもあります。
ですから、この夢の中でそこまでして夢を見破る必要も
初めから無いわけで、
すべては自然と、なるべき時になるようになるので、
そのままのあなたが、そのままで良く、
この世界では、結果や答えなど、初めから、
何も求められていないということです。
がつがつ生きようが、
深い呼吸を好もうが、そのどちらともが、
変える必要のないありのままなのです。
加えて、
そこも私で、ここも私。
見える姿かたちに全く違っていても、
あなたもまた、私であるということ。
これが、自由と解放を求める運動が
台風のように自己発生しその経緯を辿り、
明らかにしたことです。