Cross the Bridge

「橋を渡る」

これまでなんとなく続けてきたことで、
必要性を感じられなくなったことがある時。

必要性を感じられなくなってから、
完全に止まるまでには時間が掛かります。

これは単純に、

“これまでの習慣となっているから”というだけのことで、

行動が起こる度に、『今はもう必要としていない。』
という意思確認を続けることで、後に距離ができます。

このことは、
誰々という個人意識に置いても同じことで、

これまでに慣れ親しんできた自分(人格)が、
肉体としての私だったがゆえ
に、

大抵は、直ぐにその場を降りることとはなりません。

降りるまでの間、原点を明らかにし続ける。

他にも、感覚の求める力の権限を断ち、
それを手配できるのは感覚の自分でないことを
見続けること等が、

一番シンプルな、

権力交代の後押しということです。

気づきや、解放を得るための何々、云々と言うのは、
特に精神世界ビジネスでとても多く発せられて、
複雑な手順が信じられていますが、

それはそれの別物として、

良くできることはまだある。という『可能性』を栄養に、
気づきが欲しいという心を満足させて喜んでいるだけで、
実際に橋を渡るわけではありません。

気づき(目覚め、悟り)というのは、
日常の習慣を変えるのと同じことで、
知ってしまえばなーんだという様なことです。

ひとつ見てみると、

ロックという音楽リズムは、
アメリカの黒人音楽から起源した時に、
すべての“私”がこのビートを得ました。

それでも、(仮定して)ロックをあまり知らないと感じるのは、
個人を生きる自分という感覚内だけのことです。

これは、気づきも同じです。

ブッタという肉体を通して気づきが起こった時に、
すべての“私”がすでにこの気づきを得ているので、

それが起こっていないと信じているのは、
誰々を生きている人格の感覚だけです。

つまり、その気になれば、どんな肉体からも、
いつでも起こり得ることであり、
特別な何かではありません。

そんな訳から、

それでも意識が橋の向こう側に渡らないのは、
これも“ただのひとつの道”に過ぎないということです。

例えば、個人の存在から生きていると、
起こった行為に対してのプレゼントや利益の期待ができます。

個人が努力をして進歩すれば暮らしが良くなるなどの、
変容に対するメリットがその存在エネルギーです。

一方、

“自分”が打ち砕かれるというのは、

生れて来た個人の存在にとって、
存在の消滅(死)を意味していますし、
利益も貰えないということです。

加えて、世界を良くすることは“出来ない”ということを、
揺ぎ無く知ることですので、

個人を生きる感覚にとっては、つまらないですし、
渋柿を食べるような心情となることに違いありません。

これが、私たちが単純(真実)をわざわざ避けて通る大きな理由です。

ですがもし、橋を渡るという選択‐普遍的融合が起これば、

そこからは、“あるままの姿として生きること”が、
はじまります。


そこにはある意味、謙虚さが含まれていますので、

世界を理想に変えたいというような、
不可能なことへの労力を使うことは無くなりますし、

主体となってきた肉体も向こう側に置いたうえで、
すべての現象世界を、距離を持って楽しめるようになります。

世界は何も変わりませんが、その見え方は変わり、
この上ない単純さがひかりを放つのです。



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