From the worldly self to the eternal self

「物質の私から、永遠の私へ。」

運命、人生という思い込みの与える影響が
現象世界から消えゆくとき。

言い換えれば、あるがままの自由が全てとなるとき。

その経過に起こるのは、
抱えている観念そのものの喪失ではなく、

あらゆる観念を抱いてきた保持者の燃焼です。

肉体としての私の存在だけを認識し、
意識を当ててきたそれまでから、

意識自体が、本源の永遠にスポットを当てたことで、

どうやらこの肉体がホストではあり得ないことを
明らかにしていくのです。

加えて、この働き(言うなれば根源的探求)が、
どこにでも起こるかと言えば、その限りでもなく、

その肉体の生まれ持った気質や環境での条件づけによって、
自己発生的に、自由を求めるようになり、
そのコースを辿ります。

誰々という架空の人格だけに当たってきた意識が、
本物の主体へと向くことが、まずそこにもたらすのは、

物質世界ゆえでの段階的な下準備であり、

この準備に入れば、
後に直観的な気づきが落ちるまで、熟成を始めます。

例えばお酒は、造ろうと決め仕込み寝かせる工程を経て、
ある時突然美味しく飲めるようになります。

その美味しさは、仕込みと寝かせるという
工程が運んでくる味わいで、ひとりでにそうなりました。

全体性が全てとなる瞬間も、
熟成‐浸透という過程をへて、
ある時突然の、直観的気づきとなります。

そしてこの下準備の過程で起こりうることは、
現象世界での確信が、おもしろいほどに反転していく様子。

例えると、期待や山がことごとく外れたり、
動かそうとしても、梃子でも動かない。
望みが力を持たなくなってくるといったことで、

本源に意識が向いたことにより、
架空の人格(主体)の存在力が
意識上で自然と弱まっていくことで、

これまで通りの架空の努力は感じられても、
そこに結果や成果は伴わなくなってくるということです。

個人を生きて来た人格とっては、
運のなさ、人生の壁、苦しみといった類として
悲観的にとれることかもしれませんが、

この真実は、

運命、人生という偽りのレールの消滅。

変わりつつある主体の質を、
意識上に目撃されているというだけのことで、

誰々という架空の人格がその火を完全に消すまでの、
ひとり根気くらべ
と呼べる状態なのかもしれません。

とは言え、ひとたび意識が源へ向かえば、

浸透が続くことにより、
現象世界での答えは一切無くなりますし、

情報や言葉の集まりから、辛うじて形を成していた
個人的存在の残影は、遅かれ早かれ崩れます。

ゆえに、観念や信念が去るのではなく、

観念を保持してきた、私=肉体という架空の人格が
消えてしまうということです。

行為者が不在となれば、

現象世界をこれまでのようなスリルの中で
リアルに苦しむことは出来ませんし、

欲しい物をほいほい出したり、
夢を見て、夢を叶えたりすることもありません。

もちろん夢を見ることも、苦しみを演出することも、
好きなものを好きなだけ求め、
これまで同様、身の赴くままに進みますが、

その結果がどうなるか、どうならないかは
完全にゆだねられていますし、

上手く行った/行かなかったなどの結果から生まれる
壁があろうと、この壁に苦しむ誰かが居ないので、

何の躊躇も遠慮もなく、

あるがままに起こっている今の瞬間を、
新鮮さと共に、楽しめるようになるのです。

ただ自然と来るものを、そのまま受け入れる。ということは、
手帳や時間枠というものはすべて捨て去られ、

それは今この場だけを楽しめることを意味するので、

人生はとてつもなく単純となり、
わずらわしさとは無関係となります。

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