Suffering’s Source

Suffering’s Source

「苦しみの源」

目覚めが必要だから。使命だから。
特別だから。癒しが必要だから。

現象世界のありふれる可能性から見れば、
いろんな理由が見つかるのかもしれませんが、

苦しい源は、ただ単純に

自分で変えれる現象があると信じているから。

ただそれだけです。

なぜそうなっているのかと言えば、

『人生には操縦者が居て、それは(肉体の)自分である。』

この思い込みが、その夢(今ではない地点)を
丁寧に見せてくれるからです。

人生を操縦する人(人格)があれば、

当然、その操縦者はどこかに生れて、育ちました。
なので生まれた経緯や目的も、自然発生します。

これらの無数の、自分だと確信している詳細や、
思い込みから繋がっているのが、

個々の「人生」という観念で、

そこから架空の束縛は作られていきます。

これを例えると、

インクの無い筆で予定が書き込まれて行く手帳を、
肌身離さず管理している様なもので、

束縛や苦しみという名で、私たちが呼ぶそれは、
ただ単に『抱えすぎて、非常に疲れている。』という
表現がもっと正確です。

これまで知らなされなかったので、
初耳の方もあるかもしれませんが、

私たちの世界は、実はそんな大それたことでもなく、

小さな小さな思い込みの重なりが作っている
自己愛を楽しめるお城。そんなニュアンスで、

何億年も前から、そこにお城が在ったわけでもないし、

それを壊してはいけない。という決まりもないし、

管理していないと立ち行かないということもありません。

今そこで見ていることで、全てだからです。

今パソコンを見ているのであれば、
それで全てです。

同じように、いま苦しいのであれば、苦しい。
ただそれだけです。

私が、苦しんでいる。のでは無いです。

意識によって苦しみが感じられているだけで

誰がとか、何をしたからとか、理由を一切持ちません。

起こることに対して、

“それを選んだ誰かの不在”‐“ただそうなっただけ”という
単一方向の流れを徹底して守っていると、

これまで見て来た関連性の全ては見事に崩れます。

そこから見える世界は、どことも繋がっていない、
ただ単なる今見える光景。
それだけです。

ではどこへ行くかって?

そんなことは観られる側にはどうにもできません。
ストーリーはすべてサプライズです。

どんなに頑張っても、何日も寝なければ、
身体が自然と眠ってしまう様に、

すべてはその肉体(現象の私)の持ち合わせた気質、性質などが
複雑に絡み合ったとあるひとつの可能性によって、
自動的に営まれていくからです。

こうゆう話にはいろんな流派(?)があるかもしれませんが、
私の好みの流派は、なんの関連も持たないという流派。

いま目の前にあることを、感じ取り、ただ生きることです。

この流派が、たったひとつの現象との直接的な関わり方と、
はっきりと気づいたとき。

“源の私”で無い時はないので、迷える道が、無くなります。
奥行きのないあるがままが、あるだけです。

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