Becomes Clear

「澄み切る」

思考や記憶から
完全なる自由になった私たちに、
恐れはありません。

もっと詳細に言えば、

思考や記憶が如何なる力も所持していない。
という完全な理解に落ちた小箱の中に、

どんな感情が起ころうと、全く気にされません。

私たちは内側に自由や解放を求めるとき、

まずは行動や変化を起こすことから始め、
何か新たな状態に達することを信じていますが、

求められた“特定の状態”と、それを“求める私”との間に
『行為する誰かや‐信念』などのはさみものがあれば、
そこに表現されるのも(はさみものを介した)間接的な世界のみです。

つまり、霊的能力から、修行から、特別な習得、
その他あらゆるサポートというクッションを仲介して
表現された解放というのは、すべて見かけ上の解放であり、

自分で思い込み、掛けた不自由に、空間を変えて解放を起こし、
自ら喜ぶ。という御ふざけとなる訳です。

ですが人生というのは、この御ふざけを楽しむ場所である
ことは明らかで、私に提案できることも何もありませんが、

私好みの遊戯を記するのであれば、

素の自由や解放は、私たちの要素そのものであり、
私と‐状態との間には何も介さない直接的な真理なので、
そもそも失うことはない。

このことを理解した上で、

求められていることが、“ありのままの自由”である以上、

弛まず、徹底的に、その状態を、求めないことです。

これは、ありのままが“ひとりで”に顔を出すチャンスを、
与えるという意味です。

車が常に行き交う場所にできた水たまりの水は、
土で濁ってしまうので、純粋な水は汲めません。

純粋な水を汲みたいのであれば、手を加えず、
水が澄み切るのを待つまでです。

ただこの言葉の通り、単純に、
“そのまま、何もしない”を続けていれば、
理解が直観的にこの場に顔を出します。

日射が続き干からびた土が、
ひとりでに地面に亀裂を与えるまで、
シンプルに水を与えないということです。

この時起こることは、説明も証明も維持も必要がないので、
非常に純粋であり、この上なく自然な状態です。

そしてこの話の最後に付け加えるひとつのポイントは、

ことばは、鍵となる。ということです。
(閉める、開けるの両サイド)

人間同士の意思疎通の為の手段としては、
ことばの存在はとても機能的で頼り甲斐もありますが、

ある時には、理解の補助をして、
ある時には理解の足止めをするのも、ことばです。

つまり、姿形を持たない純粋な永遠のテーマに限っては
ことばには信頼性はなく、完璧ではありません。

それゆえ、ことばの補助すら介さない場所に、
直観的な理解が輝くと言えます。

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