Who am I?

「私は誰か?」

私たちは、世界という現われを目撃する純粋な意識と、
肉体との一体化ゆえに、苦しみを見ます。

それは一見に、ある出来事からもたらされた
苦しみのようでいて、本当は違います。

そして、このことを知らないことで、更に苦しみます。

誰も教えてくれないからです。

ですから私は伝えます。

苦しみと、現象とは一切関わりありません。

原初の私たちは、自然と起こることに身を任せていました。
表現する側の“私”と、表現された側の身を纏った“私”に
距離を持てていたからです。

そしていつからか、

現象の魅力から、境界線の混ざってしまった
意識と身を纏った“私”との一体化によって、

この肉体が実在であり、自分である。という誤った認識で浸透し、
大きな勘違いを続けたままでいます。

苦しみや、束縛、悩み。

もっと言えば、喜び、自由、解放というのも、

実際はどこにもありません。

苦しみを抱える誰か、悩む誰か、喜ぶ誰か、 ・・・

個体の誰かを生きている感覚に
意識のスポットが当たっている時にだけ、

誰かの経験が生まれ、
それらが苦しみや喜びとして存在できます。

選ぶ誰かが居るということは、
結果を受け取る誰かが不可欠で、

努力する誰かが居るということは、
成果を見届ける誰かが不可欠です。

別の印象を与える伝え方では、

私たちは、毎日晴れ模様の空を見る為に
生きているわけではないということです。

すべての自然から起こる働きの中には、
雨を必要とし、風、雲を必要とする時があります。

それがいい塩梅の湯加減を作るたった一つの方法です。

いい塩梅を見るために動き出した努力は、
個人的な誰かからの行為の様に始まりますが、

その過程で行為する者が消えていくので、
反転するように、結果が求められない
とてもしずかな努力へと変わります。

ですから後には、いい塩梅であろうがなかろうが、
どちらともに変わりは無くなります。

なぜだろう?

人生を生きる人格が不在となるからです。
結果や成果を受け取る誰かがそこに居ません。

起こることがそのまま目撃されれば、
その時に起こった苦しみや喜びと呼ばれることが
どんな力を持てるというのでしょうか。

現象の世界の全てが、意識に頼って存在しています。
つまり、通り過ぎ行く印象の違う風を感じているのは、意識です。

意識によって感じられた始終変動する感覚は、
“私”ではありません。
ですから、“私”にコントロールできることでもありません。

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