「全体性への確かな道」
【世界という顕われはたったひとつなので、
自他共にどこにも相違はなく、
あなたはすべてを愛すべきだろう。】
この様に聞いて、ではそうします。と
すべてを瞬時に愛せるようになる人は
どのくらいいるのでしょうか。
すべては夢の様な世界であることは理解していても、
もしくは理解したつもりで居ても、
その夢の対象が、“自分自身は除いた”世界である限り、
何を助言してもらおうと、何を見聞きしても、
全体性を見ることはありません。
これまでの私もそうでしたが、永遠の無のテーマを題材に、
目的地へ直接向かわない表現は、幾らでもあります。
全体性を見ていない手から道案内がされると、
遠回りになる上、目的地すら定まりません。
【夢の中に居る私が、あなたを夢の中に引き留めるお手伝いをして、
更に不自由を強化することで、あなた自身の自由意識から、
ひとりでにこの世界のコミカルさに気づく後押しをする。】
どうしても正確に全体性を見たいという願いがあること前提に、
もし、この様な看板からであれば、その効果はあるのかもしれません。
ですが、ひとたび根源を見てしまえば、
架空の誰かに、自由に見られる束の間の夢の世界での、
助言や教えなどは、何の冗談ですか。ということで、
取り分けて伝える意味がありません。
ただ その夢の中で、複雑に絡まってしまった糸をほどきたい。
という鮮明な意図を持ってしまった者に対してだけ、
“もしかすると”その糸を、幻想として切るお手伝いは、
できるかもしれない。というだけのことです。
自由を求める条件づけが、
自身を超えようという現象を起こし、
その旅に疲れ果てた者に一つだけ必要なものは、
彩とりどりのキャンディや癒しの音楽ではなく、
ただの純粋な水であることは明らかだからです。
併せて、この水が浸透できる状態を作るには、
何も加えない場所で休息をとることが必至です。
つまり、1に的確な明示と、2にじっと染み込ませるという
過程以外には直接的理解に必要なものはありません。
長い前置きとなりましたが、
そもそもこの世界に、愛するべき何かが存在するでしょうか。
まず、この希望的信念らしきことが、幻想なのです。
この世界自他ともに、“私”からの現われであることを知れば、
愛する。や、認める、許す。などの行為自体が粉砕します。
すべてが私であるゆえに、
そうしなければならない意味を持たないからです。
実際、意識上に現われたこの世界の中に、一切の分離はないので、
肉体と一体化した“身体としての私”の感覚側から、
世界を見渡した時に限り、自分自身が蚊帳の外となります。
つまり、世界という光景の中の誰かが分離しているのではなく、
“自分自身”だけが、その光景から分離しているのです。
私は、私に見えている世界での話しかできませんが、
この肉体としての私には、好みもありますし、
特徴や、条件付けがあります。
世界を平等に見る訓練をしたところで、
何十憶人の違った表現や、
その他現象のすべてを好きになるなど敵いません。
“自分自身は含まない”世界の中に、
単一性を見ようとしている“私(肉体と一体化した)”は、
いつまでたっても世界から分離しています。
ですから、世界の中に分離を無くす努力はしません。
それでも全体性を見たいと願うのであれば、
『蚊帳の外に居る私』という分離感に対して、
自然と沸き起こった“疑い”が、
それそのものの働きから、ひとりでに雲を晴らすのに任せます。
そして、『個性』‐ある種の“特別感を認識するあらゆる感覚”
という幻想を見破っていく過程を、ただしずかに見守ります。
“疑い”は、沸き起こった時点で、単一に、それが展開するままに、
“掛かった霧を晴らす”こととペアとなって働きをします。
これを、自身の努力によって展開させていると見ることで、
そこに行為をする「誰か」が介入するので、
努力という本当はありもしない疲労感を見ることになります。
全体性に、(時に、命よりも大切にされてきた!)個性が
放たれていくことで、蚊帳の囲いも姿を徐々に消します。
そこに残るのは、純粋で、自然な理解から浮かび上がった
揺るがない全体性です。