An Island Floating in the Clouds

「煙に浮かぶ島」

この世界は、一見には実在であるようでいて、
実際は、意識上にだけプカプカと浮かぶ半透明の世界です。 

テレビの映像が、テレビという機械無しには見えない様に、
何かに頼らずには独自の働きの出来ないものは、
それそのもの自体での存在は無いと理解できるので、

人生は、あるかないかのはっきりしないものとして、
夢の中の様に楽しまれるのがベストという在り方を、
私はここに、心地よく感じています。

独自の働きは出来ない。ということから分かるのは、
私たちの誰もが何も選んでいないということです。

もっとダイレクトには、

私たちの行動は条件付けに沿って動かされていき、
そこには、行動を起こす誰かが存在していません。

そもそも意識に頼らなければ、
その姿を顕すことの出来ない独り立ちしていない存在が、

生れる場所を選び、親を選び、体験を選び、
自由を選び、悟りを選べるのでしょうか。

全て自分が選んでこの世界に生まれて来た!という
輪廻転生の魂論の幻想が破れる時、
私たちはありのままに、ありのままの世界を生きます。

私たちが自分の物語を繰り広げる為には、意識に頼り、
映写機からの自動反映の力に頼っていることを知れば、
この世界に対しての、これほどにも単純で、
見晴らしの良い理解は他にありません。

例えば戦争は、国民のほとんど誰もが望んでいません。
そこまでしてやりたのであれば、トップ同士でやり合えばよい話で、
国ぐるみに巻き込むことはどこにもありません。

それでも、戦争は国ぐるみで起こります。
反対運動がこんなにもあるにも関わらず、
これほど無意味なことが無いのは分かっているのに、

それは起こるのです。

もしも私たちに独自の働きが出来るのであれば、
ミサイルを作れるだけの高度な頭脳使って、
どうにか他の道を選べるのではないでしょうか。

それでも、どうにかできません。

頭で考えて分かるような理由なく、どうにかできないのです。

どうにかできないものの話しを続けても仕方ありませんが、
ただ理解的補助の差し油とするならば、

ここが、意識上にだけ浮かぶ世界ゆえに、
無規則で、無秩序な世界であることが見られれば、
そのように展開し維持されます。

言い換えると、自分たち独自の力で生きていることを見ている限り、
そこには『私‐他者』の存在という行為者の幻想が生まれ、
世界は『私‐他者』として繰り広げられていく。ということです。

これは正しい。と思っているものが居るれば、
これは間違いだ。と思っているものも存在します。
なので、無秩序的かつ作為という理解が介された世界には、
対立が生まれ、良くするべきこと(問題)を生みます。

このように、行為者の視点から世界が映される時にだけ、
世界という現われが苦しみとなるのは明確ですが、

これはあくまでも、仕組み上の補助的理解で、
本題としては、ここからです。

もしここが、意識上という煙の上だけに浮かぶ島🏝での暮らしであれば、
それを必死になって変えようとする必要があるでしょうか?ということです。

おそらく、意識上に浮かぶ島であることを知った時点で、
実在の島と思って暮らしていた時よりも、
良くしたいという必要性は薄まります。

そして徐々に、徐々に、その理解が浸透することで、
その必要性は跡形なく姿を消していきます。

ここから生まれる目には見えない余白‐距離の感覚は、
私たちが初めてこの島を訪れた、原初の在り方です。

“私”が、個人の身体です。という間違った感覚が外れると、
“私”が、本来の全体性の居場所を取り戻します。

つまり、平和を好むものも、争いを仕掛けるそのもの同様、
煙の上という同じ土台に現われていることに変わりなく、
その時、正解といった類のものは、あるでしょうか。

こことそことが、ただありのままの姿を
現わすのではないでしょうか。

もし今どこかに、解放や改善が必要な何かがあると
感じられているならば、

それは解放や改善を求めた心が、
意識上に映し出した見かけの解放の必要性。でしかありません。

ですから、はっきり言ってしまえば、
ここに書かれたことへの理解が起こっても起こらなくても、
霊的にも内面にも、何の変容も、徳もありません。

意識上にだけ現れる私たちの存在は最初から、
霊的一面も内面的一面も、どこにも持っていなかったからです!

今日ここで書いたことを、一言にまとめてしまうと、

この世界の、単一性特徴を知れば、
世界はシンプルに反映される!といったところです。

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