Instant Comprehension

「瞬時の理解」

この世界を良くしたいという強い願いから始まる探求は、
ここに現れる全ては本質の私に触れることは無いという
居場所に落ち着くことで終わりを迎えます。

映画の中で実在として生きる側から、
映写を見る側として鑑賞を楽しめるようになることで、
“楽しむ”という新しい側面を持った余裕が心に根付きます。

人生を一本の映画として例えてみても、
脚本家と監督の意図の中に映し出された作品を観ている側は、
物語がどんな展開になろうとアドバイスや手直しはしません。

なぜと言えば、上映された時点では既に
撮り終えていることがひとつ。
もうひとつは、映画は観られるものであって、
その中で生きられるものではないからです。

物語の中に生きている者にとっては、
話がどのように進むかの1分1秒が非常に気に掛かりますが、
鑑賞する側であることを理解している者は、
その物語がどうなろうとただ受け入れるだけなので、

この世界と自分との関係性としては、
この理解から生まれる平和より強力なものは他にありません。

物語が好みでない流れとなれば、
何かしらの反応は認識されるかもしれませんが、
それ以上でもそれ以下でもない。

私たちは、物語を見ている側の立場であることを
知っているだけで十分で、見られるために映し出された上映が
それはそれとして流れていきます。

つまりそこには、良くなるべきことも良くするべきことも
無いということです。

ここで話す脚本家や監督とは、私たちの心の働きその物で、
この世界は心の反映となる影がそのまま映し出されています。

映し出されるということは、言葉の通り創造すらなく,
ひと時の余韻‐残響のような物です。

ですから実際には、頭の中で考えられている様な、
多方からの影響で複雑に入り組んでいる世界など実はどこにも無く、
観察している者からのひと方向のこころの反映から
映されているのがこの空間です。

シンプルに一方向。それでしかないのです。

そうであるならこの空間にはいま“この空間”だけがあります。

この空間という単一の瞬間しか存在していないのに、
これからやこれまでを良くすることが“誰に”できるでしょうか。

努力も起こり、行動も起こり、人生も起こる。

様々な出来事は自然と起こっていきますが、
それを選んだ“特定の誰か”として生きるということは、
自分で自身の役割を決められると感じているということです。

好みや計画、特徴や性質…
特定の働きを心が任せられていれば、
次から次へと空間を広げることは出来ますが、
これらすべてを自分の責任として管理し、
維持することはとても忙しいことなので、

鑑賞する側として現象との距離が保たれるという
根源の幸福を知ることはできません。

「何も 良くすることがない。」

これはある意味では、
自分がそれを選んだ特定の誰かでは無いことを
深く理解することでもあります。

加えて、何がなくても幸せであることを知る機会でもあります。

思い通りでなくても、気が滅入っていても、
明日死ぬとしても、今幸せである。

姿かたちの中に感じる幸せとは違う原初の幸福(自由)が、
私たちそのものです。

何も無い‐加えない自然の姿としての幸福(自由)に気づいている以外、
私たちが求めることに何の意味があるでしょうか。

覚えておくことは、
あれだこれだの特定の役柄ではなく、

ありとあらゆる行為は起こっても、
人生は流れていく雲のようなものだということ。

流れゆく物は掴むこともできないし、
とっておけないということ。

唯一流れていかない本体に気づいていること。

実際、こころの反映の世界であるこの空間から、
影として本体を知ろうとしても、知ることは出来ません。

鐘の残響が、鐘本体を知ることは出来ませんし、
太陽は自身の光を浴びることは出来ません。

ですから影の私として知ることは、
「自分たちは主体に目撃される客体である」ということ以外他何もありません。

名前も性格も性別も、明日の計画もこれまでの行いも・・・
何も抱えなくて(知らなくて)良いのです。
客体は、端から何もしていないからです!

人生‐この世界の行方は何も分かりません。

景色が多様に移ろい流れる空間。ということは認識できますが、
登ったり下ったり止まったり、ある時は回ったり飛び上がったりと、
不確かな現象の現れる空間に、私たちは何を必死に確保し、
何を起こらせよう/起こらなくさせようとするのでしょうか。

本質が見せた夢ならば、その夢は見られるために起こったことです。

その中の“経験らしきもの”から直観的に知らされたこと。
存在の奥から自動的に沸き起こる理解。
これはどこにも消えゆくことはありません。

私たちは夢の中で何度も壁にぶち当たる感覚を見ますが、
そのおかげでこの人生が何を意味していたのかを知るのです。

それは、何も意味していなかった。という、拍子抜けなものですが、
この世界の中では、“手放す”という消滅の行為でさえ、
それを行う誰かが居る限り、必要となるということです。

ですから、こんな冗談めいた空間は、
常に直観的に楽しまれる他、妙案はどこにもありません!

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