「自由!」
自分に今起こる体験を通して、その枠組みを外して超えていく度、
わたしたちは自由になっていく。
自由は手に入れる物でなく自分自身で、あることに気づくもの。
こころの縛りから解放されることで、ちょっとずつ気づくもの。
実際にはおもいっきり純粋な自由が、初めからここにあるけど、
この世界での見えないパートの〈本質とか、感情、想いなど・・〉
内側部分は、“あること”をちゃんと意識に気が付かれなくては、
日の目に当たることがなく、無いことと等しい。
だから私たちは右往左往しながら
既にある自由に気づく為のいろんな体験をし続けている。
完全なる自由の空間のそれだったことを目撃するために。
ここには純粋に動の世界を楽しむ今と、
重荷をどんどん脱ぎ捨てて軽くなるための今がある。
それが誰のものでもないオリジナルな自分(ここ)だけに顕われた人生で、
どこを見ても、自分(ここ)印の押された自分(ここ)だけの世界です。
そんな中には、こうした方が良いよ。こうすると良くなるよ。
色んな違った素敵なアイデアはあるけれど、結局全部正解で、全部不正解。
だってそれは自分の体験から得たことではないから。
この世界は自分のこころで観たままに映される世界。
見たままのことが映されるから、そう見れば即座にそう創られる。
なのでどんなに真実めいたことを何処かに見聞きしても、
それはいつかどこかで感動した胸熱の出来事の余韻だったり、
これまでに聞いて信じてきた誰かにとっての真実だったりする。
これだと、いつになったら本物の自分の体験と向き合えるのだろう❓
自分の体験から直接生まれる今の感情よりも、
正しいものはどこにもない。
だから外側に答えを探しても見つからない。
見つからないというよりも、答えが初めからない。
答えは出したり探すものでなく、毎日の積み重なる体験が
ゆっくり混ざり合いながら開いていくことだから。
強いて言うなら、すべてが終わってから分かること。
人としての時間にあるうちは、人をする時間が答えに導く。
だから焦らないでいい。誰かになろうとしないでいい。
計算から出せる答えは、誰にでも出せるものだから、
実は本物の正解じゃなくて、、
本物の答えは自分の観たことから生み出されていくものだから、常に新しい。
そこには丁寧な過程という時間(秘儀)が掛かる。
(地球の、時という刻みはその中にすごい秘密を握っていると…
私は思っている。)
なので外側で既に創られたことからは、
自分にとっての本当だと感じないならばスルーもできます。
私はそうは思わないの。と自分に正直になれます。
例えそれが神様の言葉だとしても!
自由があることに気づく為に命を灯す暮らしには、
間違えというタグも正解というタグも、どちらともがそぐわない。
人生、行く手の中身予想はできないけれど、
起こること何でも超えていく覚悟で今を生きる、ただそれだけ。