Behind Me

Behind Me

「わたしの後ろに」

創造主というのは、私たちの原点であり本質となるもの。
言葉の通りこの世界を創る主のことですが、
その者は外側世界の中に物質的には居ません。

居ないというよりも、この物質世界の土台となる側なので、
自分で自分はみることができないということです。

その者がこの身体の目の後ろ辺りに居るのに、これまで気づけなかったのも、
その者が自分自身だからというとても簡単な落ちです。

鏡で身体が見えるので、本物の実在がその更に後ろに隠れているなんて
ほぼ誰にも知られません。.。o○

ではこの名前の付いた身体はだれ?と問うのですが、
この世界を創った姿かたちを持たない自分が、
この世界を観察するための扉となるもの。

又は、物質世界と非物質世界のつながりとなってくれる衣装。
という表現が美しいと思います。

後ろにある実在が、衣装という扉を通してこの世界を行き来しているうちに、
実在から、衣装の『私』へと分離していきました。

長い時を流れ、その後ろに隠されていた実在を改めて知り、
これまでの分離がひとつに重なり合うことで統合となるんですね。

それは、この世界の源、実在としての自分に出会うということで、

私たちの観ている世界には誰ひとり、何一つの実在もない。
もしくは、すべては自分自身である。という言い方もできます。

そうすると、私たちという存在は消えて無くなります。

世界という広がりもどこかへ消えて無くなります。


そしていまの瞬間に、自分の目に映し出す光景がたった一つの真実となります。


分離からみる世界は、重くとても苦しいものです。
いつからか人類のこころがあまりにも物質主義となってしまったことで、
私たちの要となる非物質世界を隠してしまったからです。
ひかりと影・白と黒とのコントラストが極端に偏って、
一言で、調和が壊れてしまったということです。

何が白で、誰が黒という分離の視点からでは、
どうしたって自分を否定する現象は起こります。

外側ではなくこころの中に善と悪の分裂があるからです。

つまりここには良いも悪いもなく、こうゆう仕組みとして
分離からの世界ではどうしたって自分を否定する現象は起こり、
統合からの世界となれば、自然と自分を愛せる時が来るということです。


お花がずっとつぼみのままでいることは無いように。
木の実もいつかは弾けて新しい旅をはじめるように。
動の世界では、ずっと同じまま変わらないことは何一つとないので、
一連の広がりの中で、私たちは変わり続けています。

ですから、本当のところで私たちが目指していることは、
私心や私欲のために人生の苦しみを加減したかったり、
出来事の全てを良にすることではありません。

暗がりの中で明かりを見れば、そこへ近寄っていくのが自然な行為の様に。
地球を良くしようという流れの中で向かっている先は、
生き易さを暮らしの中に増やしていくこと。

その中で、起こるべくして銘々の物語は進んで行きます。

生き方のシフトチェンジも、起こるべき完璧なタイミングに
ひとりでに始まります。

物質世界には時間がありますが、
この世界を創り出す非物質世界には時間が無いので、
意識の始まりからその果てしなく続くすべては同時に起こりました。

それを時の刻みと共に順を追って見ることのできる場所が、美しい地球です。

行き先の決まった旅路を知るとがっかりする気持ちもあると思いますが、
よく考えてみると、自分で選べる明日があるという方が
余程自由が奪われていることが分かります。

物質世界の狭い視野の中だけで、
生れた環境や外的要因が人生の全てを決めてしまうので、
常に努力しなければ何も進まないし幸せにもなれません。

愛という調和と平等の要素が、そこにはたった一つもありません。

上にも書いたように、動の世界でたった一つの止められないことは
広がることなので、投げたボールがバウンドしながら色んな方向へと進み、
どこへ転がっていこうとそれが特別な意味を持たないことと同じ様に、
私たちの歩みにも特別な理由や目的があったわけでは無く、
ただそこへと流れついたあるがままの空間だけがあります。

あるがままの空間の旅路であることを理解すれば、
そこで私たちは、非物質世界の存在を知らざるを得ません。
この物語を生きる衣装が人生の舵を取っていないのなら
この世界を動かす力が、見えないどこかに隠されている事になるからです。

人によってはこのことを、運命は決まっているという伝え方も
するかもしれませんが、私はこの表現があまり得意ではないので、
あるがままと伝えるのがちょうど良いです。☺

時という刻みの中から物語を辿っている私たちにとっては、
全てが新しく、起こること一切の予測はできないのですから、
運命は決まっていないも同然で、
夢を見る世界で、夢は夢として存分に楽しむべきと思うからです。

なので実在を見る努力をすることよりも、(実在を見失うことは絶対できないので)
この世界を生きる感覚が自然でいられることが一番です。

本当に好きな事をしているとき。
目標や夢の創造の許可を自分に出せたとき。
自分のこころに正直になれている時・・・
自分にくつろいでいる時の私たちは、目を閉じずにも、座っていなくても、
それは内観(本質と繋がって)をしているのと同じことです。

仕事を通して、自然や趣味を通して、家族のお世話を通して・・・
私たちは必ずどこかで、自分自身と向き合うということをしています。
なのでステップは、獲得する何かでないことは心に留めておいてください。

この世界が、いくら夢や幻想世界と言っても
そこが暗がりであれば、私たちは率先して明かりを灯します。
居心地が悪ければ、自然と居心地を良くすると思います。

この夢の世界を夢に見るままに精一杯生きる事が、
全体の調和からそれぞれの扉へと任された唯一を生きるという事です。


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