Eternal

「永遠 」    

私たちの本当の姿である、意識(宇宙、真我、本質・・・)
のスケールは無なので、無限です。
何も持たないので限界を持ちません。
ですから〈そのままでどうぞ〉ただそれだけです。
これまでがどうだったかとか、それはあなたに相応しくないとか、
そんな小さなことも注文してきません。

周りと同じか、そうでないか。それも全くどうでもよいことです。
悪いか良いかも、出来るか出来ないかも、判断しません。
すべてそのままで完全です。
どんなあなたでもウエルカム=許しますし、愛しています。

ではなぜこんなにも多くの人間が、自分は駄目だと感じているのでしょうか。
完璧な働きを、不完全と見せるのはだれなのでしょうか。

姿かたちを持たないハートとは正反対の性質の、
思考するマインド・自我のスケールは有限です。
肉体という物質をもっているからです。

この世界は、無である意識が、有のマインドと重なり合うことで生まれます。
姿を持たない意識が、物質世界で仮の“私”を演じることで作り上げる感覚なので、
このことに気が付いて現象を生きているのであれば、何の問題もありません。

ですがこの感覚にあまりにもリアリティを持たせてしまった為に、
実在があると見てしまっている事で、
私たちに様々な苦しみを与えるようになりました。

それは大抵とても狭い空間で、何をするにも、そのままでどうぞとは言いません。
出来るかできないか、そして良いか悪いかを非常に気に掛けます。
マインドから生まれる想いのすべては、限定の中に閉じ込められているからです。

理由が無ければ幸せになれませんし、
ありのままを受け入れることもしません。
限定ゆえに、生きている証もいつもどこかに残さなくてはなりません。

つまり、いつも『消えゆく恐怖を』抱えています。

ここでピンと来た方もいるかと思います。
誰が消えゆくことを、恐れているのでしょうか。

そうなんですね。

それこそが多くの人間が恐れる、死への恐怖の根源です。
これは、マインドの作り上げている作り物の空間なのです。

個人という感覚を持つマインドは、この肉体と自分を同化し、
時間と共に生きています。
この時間という限定と共に生きるマインドだけが、
自分の終わりを恐れているのです。

死を迎えるのは単純に、物語の中の“肉体”にとってです。
生れたのも肉体、そして死を迎えるのも肉体。
このことを知らずに死を迎えれば、そこに執着は起こり、
満たされなかった欲望を悔んだ想いが、肉体を離れることを許せません。

肉体のあるうちは何度でもやり直しができますが、
肉体を離れると、マインドの想いだけはそのままの状態で残ります。
これがループです。

ですから、私たちが肉体を持っている今この瞬間にだけ、
軽くなることが可能で、次へと進む許可を出すことができます。

このことを思えば、やりたいことがあるのなら、なんでもトライするべき。
というメッセージとなりますし、結果や世間体など細かいことをどんどん超えて、
思うがままに生きる事の中にだけ、すべての答えは隠されている
。となります。

この世界は、やりのこした想いや、
流れることの出来なかった想いの作る幻想の空間。

言い方を変えれば、繰り返しこの世界を創り続けるマインドが、
実は自分は実在していなかったことを証明するための空間。

最初に書いているように、意識そのものの幸福であることを気づき、
そのつもりで過ごすこと。にのみ出口がみつかる。
究極に見れば、無であることに気づいて身体を去る為の準備は、
生まれた瞬間から始まっている。ということとなります。

本当に不思議なところです。

そうゆう意味で思えば、
この世界は私たちの理解する所の霊的世界そのものですし、
お化けという類いのことは仏教でいうところの
“ひかりの当たることが無かったマインドそのもの。”と言えるのです。

年をとれば身体のあちこちは古くなります。

年をとらずにも、この身体でどこまで頑張ってみるかは、
それぞれが物語を完璧にデザインしていて色々な形のお別れがあります。
新しい衣装に変えまた戻って来ることが必要なひかりも、あるかもしれません。

ですが実際の死とは、衣装をひかりに戻すということで、
“生命”が無くなることでは、決してありません。

肉体の死を迎える時に、名前の自分ではなく、
無限の“生命”として去ることが最も美しい死です。

アフリカのガーナでは、お葬式に悲しみは不要だと言います。
死とは新しいはじまりを意味するので、
おしゃれで素敵な正装をした家族、そして通りすがりの方や、
近所の人も集まって、ダンスを踊りながら祝福の儀式とするのです。
本当にその通りこれぞ死への尊重だと思うのです。

時間という限定を示す概念が幻想であることを思えば、
この物語に肉体が誕生したと同時に死も迎えていることになります。
そうであれば新しい始まりの誕生の祝福と同じように、
ひと仕事終えた死も、新たな出発点として祝福されることです。

肉体の死が時の中で起こるとき、 自然界の動物や植物がそうであるように、
人間もこの理解と共に、無という幸福の中で物語から去っていく。
それを例えて言えば読みかけの物語を開いたままではなく、
物語を自身で閉じて去る美しい結びです。

これがこの世界を流れ漂う私たちにとって、
他の何よりも大切なことではないでしょうか。

無限は、生きている証を残す必要がありません。
永遠なので、消えゆく恐怖もありません。

恐れのマインド、そして愛の真我。
このどちらを拠点として人生を観察するのが私たちの望みか。
それは問うまでもないことだと思うのです。

恐れのマインドが、ハートの中へと吸収されるのを見届けるのは私たちです。
身体を持ったまま誕生と死というサイクルを超える為の、
今この瞬間瞬間が、私たちに常に提示されています。

これまでは、全意識を有限にむけることで、
多くの者が『マインドの私 』 として生きてきました。
有限から沢山の不自由も経験しめいっぱい自分も否定してきました。

私を演じるマインドというのはとても不器用ですが、
この不器用という表現は、「一生懸命」と向かい合わせなんだと思います。

私たちの本性である意識が、マインドに見るままにこの世界は創られていくので、
『マインドの私 』 の産みの親とも言える「意識(ホスト)」の見るままに、
必死で答えようとしています。
与えられた仕事をただ一生懸命にしているだけなので、
実はどこを探しても、暗闇はその存在すらありません。
その様な角度に固定させて見ていただけで、
悪いことも、悪い人も、悪い物も、初めから無かったのです。

このことを知ったらもうお終い。
ここからは無限のハートへダイヤルが戻ります。

私たちが全人生を掛けて知ろうとしていることは、後にも先にも、
すべてのものが平等に、幸せそのものである。(すでに満たされている。)
この事だけです。

“『マインド-私 』 という感覚は、幻想であり、
そこから現れる全てが夢の世界だった。 ”

このことに気づいたときに、原点が姿を顕します。
安堵という安らぎの、幸福。これこそが私たちの本質です。

幸せとは、待つことや何かを持つことで成るものではなく、
今この瞬間にみんなのハートの中にあるもの。
あなたがここにいるということは、幸せであることに気づくためだから、
安心して自分の道を生きていこうね。

世界中のお母さん、お父さん、そして大人たちが、
こんな風に子供たちへと伝えてあげられる世界を、私は見ています。

書いてみたかった、死そして生命について少し触れることができました。
毎ポストのことですが、言葉にして表現するには到底叶わない部類のお話です。。
ですが、それをする意味や理解するという形を超えて、
「なんだか安心する🐣」これだけが一貫して伝えたいことです。

永遠のいのちがどんな瞬間も離れることなく私たちを包み込み、
何をするのにも一緒の歩幅で歩んでいます。🐧
愛と自由は、森羅万象全ての姿に変え、いつでもあなたと共にいます。
このことに安堵して眠りについてください。🕯

今日の一日も皆様に平和がありますように😊