Thoughts that fade away (1)

「薄れゆく思考」

遥か昔から幾つもの機会を持って、
私たちは、気づきを得るためにここに居ますが、
今、とても多くの人たちが本当の愛とは何かを知ろうと動き出し、
偽物の主体(思考・自我)にひびが入り始めています。

多くのひかりが、どんどん波動を上げながら、
有無をいわさず次のステップへと進んでいるので、
それぞれの段階や手段はちがっていても、
つらいなーきついなーということも起こっているかもしれません。

起こっていることを、ひとことにすれば「権力の交代」ということですが、
自分の手元の幸せだけをカウントする、狭くて不自由な世界から、
すべてが一つに繋がっているという認識のベースとなる、
軽くて自由な世界へと変容しています。

厳密には、これが元々のわたしたちの在り方なので、
原点へと戻るという表現が良いかもしれません。

そしてこれは、外側の世界が変わるのではなく、
わたしたち一人ひとりの意識が変わるということです。
世界を認識する視界が、がらりと変わっていくのです。

私たちが、この世界の中で生きているのではなく、
この世界が、私たちの中で、息づいているからです。

なので、世界の方が変わるのを待っていても何も起きません。
私たちの「ここ」である、実在としての権力が、
元々の無、本質としての純粋な意識へと戻ることで、
分離のない世界を見ます。

その大きなポイントとしては、個人としての意識が薄れていくということで、
それぞれの段階や詳細は違っても、
遅かれ早かれすべての者が、思考(自我)の自分から、
本来の主体である無、本質へとバトンを明け渡すことになります。

一日の終わりや、これまでの出来事を振り返って、
詳細に検証してみると、それぞれに心当たりがあると思いますが、

努力空しく変えることの出来なかったこと。
意図せずとも、進みたくない道へと行ってしまったこと。
そしてその反対に、何もしてないのに物事がスイスイと動き、道が開けていくこと。
これまでに、幾つも経験してきていると思います。

椅子に座ると足を組むという動作や、手が伸びてお茶を飲むという動作も、
無性にケーキが食べたくなり、買って食べるという一連の動作にしても、
すべてどこからともなく、自然と沸いて起こったことが分かります。

自分が好きだと思っていること、仕事、好きな場所、習慣・・・
自分が選んでしていると思っている全てが、
記憶であろうが、DNAであろうが、条件付けであろうが、
どこからともなく沸き起こり、特定のものを選ぶことを余儀なくされ、
そこには初めから選択すらなかった、という事に気付かされます。

私たちがこれまで教えられてきたように、
もしも思考(自我)に、人生の全権限・選択権が与えられているのなら、
苦しみや悲しみを敢えて選択する自分はいるのでしょうか。

名前を持つ個人としての誰かが、人生の詳細を選んでいるのかという問いには、
全く選んでいない。とはっきりと伝えた方が分かりやすいかもしれません。

すべての行為は、自然と沸き起こっている、のです。

例えば精神探求の道。
思考の自分が、ある日突然に、自分を知る旅に出されます。
まだゆっくりしていたのに。もう少し布団の中で温まっていたいのに。です。

大抵のその旅は、思考(自我)がありったけの苦しみを見ることで、
内なる姿を知るのですから、とても重く、苦しいものです。

加えて、最終的には思考(自我)の不在の証明をするのです。
自分だと信じて来た世界観を、消し去ることが分かっていて、
皆好き好んで旅をはじめたのか?ということなのです。

個人の私が選ぶ/選ばない。ではなく、全体としての一連の働きとなって、
時には選ばされて、時には選ばされない、ということが起こっているのです。

これまでは、教えられるままに、
個人の自分に全権限がある様に生きて来たので、
今度はそうではないと聞けば、それこそ驚いてしまいますが、

人生がもしも本当に、努力でどうにかなるのだとしたら、すごく疲れませんか。
思い通りになるように、流れをブロックし続けるには、
相当なエネルギーを消耗しますから、
毎日、何するにも選択続きなので、気の休まる時がありません。

更にはそれを、来る日も来る日も、自分の選択だけでコマを進めていたら、
限界になりませんか。

そうなんですね。限界がきたから、私たちは立ち止まるのです。
これ以上どうしようもできない事を理解して、
偽の主体は、本物の主体に助けを求める他無くなるのです。

苦しみしか生めないことを知ったから、来た道を折り返します。
全てを本質の計らいに委ねて生きることが、
最も自然で調和にあることを、十二分に知るのです。

他の言い方で言えば、それが進化するということです。
人間としてのひと仕事を終えて、次のステップへと進むということです。

私たちはずっと、個人的な努力が実を成すと条件付けられてきたので、
これまで必死になってペダルを漕いできたと思っていた船が、
本当は電動式で進んでいたとわかったとき。
困惑しますし、すぐに納得はしません。
ペダルを漕ぐのを完全にやめれるまでに、時が掛かります。

それでも、電動式だったことを知らされた時点で、
視界は徐々に変わってしまいますし、
これまでのペダルの漕ぎ方を続けることは出来なくなります。

そこからは、ドリップコーヒーの雫のようにゆっくりと、
自然と理解が浸透していくだけなので、
恩恵の授ける流れのままに、任せるということになります。

最初は思考の反発があっても、もうこれ以上反発しても意味がないと理解は進み、
時が熟せば、統合(吸収)が起きます。
個人の努力の関わらないところで、自然とそれが起きるのです。

すると、害を作る思考ではなく、純粋な思考の働きへと戻ります。
それは、仕事の進め方や、時間の計算、
必要な時に便利なことなどを教えてくれる、完璧なパートナーです。

🍂 🍁 🍂

精神世界は、とても奥深いので色々な考え方がありますが、
人生は自分の望むままに生きられるか。という問いをするならば、
はいでもあり、いいえでもあると私は感じています。

思考の思うようには、生きられませんが、
私たちは、本質の望むままに、生かされています。

そして何より、それぞれが、今見えるまま/今感じるままのことだけが真実なので、
どちらかを明確にすることは出来ません。

けれど本来の目的に合流することで、この問いは消えゆきます。
望むままに生きれる事を“期待している”のは、いつでも思考だからです。

人生の舵取りは、自分がするものだと教えられてきた思考は、
常に、人生を良くする努力をし続けてきました。

選択権の無いことを知ると、居場所がなくなるので、とてもがっかりします。
まして、はいそうなんですねとは、すぐに理解できません。
思考は実在が無いゆえに、見破られ消えゆくことを常に恐れていて、
良くすることが出来るよねという、期待(願望)の中にしか存在できないからです。

カルマがあって、それを癒さなくてはいけない自分。
望みがあって、それを叶えたいと願う自分。
幸せになれないように、自身を戒める自分。
苦労しなければ、何も得ることは出来ないと信じ続ける自分。・・・

居場所を探す思考から、これらの、“人生をより良くするための理由”が、
とめどなく流れてきますが、
すべて幻想として見破り続けることで、必ず終わります。

期待(願望)を捨てきれずにいる思考の、消えゆく前の最後のもがきなのです。

まとめて言えば、これが権力の交代のプロセスであり、
思考が人生を諦める為に必要な、完璧な道筋です。

続く。