Everything is in the Heart

「ハートの中に全てが揃う 」

これまで欲しかったもの。自分に足りないと感じている物。
その全部が、揃っている自分を想像したときに、
私たちは何を求めるのでしょうか。

そうです。何も求めないのです。
そこにあるのは、調和と平和です。
それは、今この瞬間にあります。

今、この瞬間を生きるということです。

今この瞬間にあれば、語ることは一つもありません。
ノーコメントです。

心は世界を映します。
私たちが、現実の世界と呼んでいる外側の世界。
この外側の世界に心を向けていれば、
瞬く間に世界が作られます。
想ったまま、見たままの通りに、世界は現れます。

時間の中につくられたものは、やがて時間の中で消えていきます。
つまり、時間の中で作られる姿、形、物を記憶の中で求め続けても、
現われては去っていくので、終わりがありません。

記憶の中で求め続ける。とは、
自分の中に記憶された喜びや、幸せ像が更なる欲望を生み出すということです。
あの時は良かった。という想いが、それを持たない自分は不幸と見て、
新たなあの時を作ろうとします。この様にして苦しみは生れます。

いまこの場で、どんなに素晴らしいことが起ころうとも、
記憶という過去の眼鏡をかけていることで、これまでを超えることもできません。
この無限のループに居るのが、こころを外側に向けているという事です。

もっと他の表現ではこうです。

数字にして例えてみると、99.999%
これは私たちが全宇宙の中で未知なことです。

そして、0.001% これが私たちの知っていることです。
たったこれだけで、私たちは全てを知っている様に感じて生きています。
その中で、知らないことや、説明できないことが起これば、
それを奇跡と呼んだりします。

自分はなんでも知っている。という想いがフィルターとなって遮ってしまって、
まだ見たことのない可能性には、ほとんどの者が触れることが出来ません。
ですが真実は、“ほとんど全て”が私たちがまだ見たことのない世界なのです。

この無限のループにある限り、今この瞬間には居ません。
心が外を向いているからです。
外側の世界は、こころの示した通りに作られた後の世界です。
記憶の中、過去の世界に彷徨っている。となります。
これが、眠ったまま生きているということです。

心が世界を映しだす仕組みをもう少し詳しく見てみると、
両手を横に広げての横軸と、足から頭へと繋がる縦軸。
この中心を交わるハートから湧き上がる呼吸。
この呼吸(生命)から現れているのが、外側の世界です。

呼吸の数は海の波打ちと同じ1分間で18回。
太陽年で太陽の循環リズムに合わせてみても、同じ18回。
この聖なる呼吸のリズムに合わせて宇宙の全ては繋がっています。

ハートを境に、内側の世界と外側の世界が、
正面で鏡合わせで向かい合っている様子です。
こんな仕組みで、心で示したことが誤差なくこの世界へ映されます。

ですから一言で言えば、
このハートの中に、もうすべてが揃っているということです。

宇宙も、天使も、神様も、そしてお金も他の物質も、自分も。
空の上や、いつか遠い未来から降りて来るのではなく、
もうすべてが、このハートの中にあります。

地球のどこかにあるものが、何処かからやってくるのではなく、
自分で選び、形にして、命を吹き込み、
この世界の中に映し出して見ているのです。

このことを知れば、何を求めようというのでしょうか。
自分のお花畑には、自分の力で、どんなお花でも咲かせることができます。
加えて、自分のお花畑に咲くお花は、すでに自分の物です。
わざわざ一本一本に、自分の名前を付けて回ることもしません。

自分が命を与えて観察していることが分かれば、
何にしたって、自分の選択です。
世界や、誰かのせいにもできないことが分かれば、
自分の人生を楽しめる道は自分で見つけれるのですから、
その方が余程、愛ある生き方ができるのではないでしょうか。

誰かや何かに幸せにしてもらうのを待つのではなく、
それぞれが、自分の楽園を住みやすくすればよいのです。

自分で今しあわせに成ればよいのだから、とても簡単です。

心を内に向けていれば、常に今この瞬間にあります。
この瞬間にこそ、全てが揃っているので、
今起きたことを楽しみ、それで終わりです。

楽しむだけ楽しみ、その思いを明日に持ち越すこと無ければ、
記憶という足跡を付けて回ることにも、なりません。
時間の中で作られたものは、時間の中に消えていく。
この理解があれば、その場限りで楽しめるので苦しみは決して生まれません。

今常に新しい自分は、想念や時間の鎖から外れ、本来の自由の姿です。
何者でもない、本質そのものなのです。

心を外に向け、個人の登場人物として過去の世界で人生を掛け巡るのか。

心を内にむけ、今目の前の上映を楽しむ、観察者という立ち位置を保つか。

どちらに心を向けるかで世界は変わります。
いつでも今この瞬間に、その選択があります。

最近聞いたお話を使わせてもらい、「今に戻る」ことを具体的に見てみます。

あるお子さんが眼鏡を作ることになりました。
お母さまは視力が良いので思ってもみない出来事でした。

お母さまが丁寧に子供のお世話していればいるほど、
眼鏡が必要になったのは自分の責任ではないか、と感じます。
テレビを見せすぎた、自分が良い眼に産んであげなかったなど、
後悔や否定のこころが浮かび上がってきます。
物質的な理由はいくらでも見つかるので、
全てに対応していたら、ますます思考の中へと引き込まれます。
そして非常に体力を消耗します。

ですがここでひと呼吸。

世界は自分が作っていること。
自分はあくまでも鑑賞している立場であることを、確認してみてください。

外側の世界には、何一つと実在はありません。
悩みや苦しみと認識されている出来事・状況は、
楽しい出来事と同様に、これからスタートする何かではありません。
ここは、もう作られた後の映像の中の世界ですので、
なにひとつと、力はありません。


そうであれば今目の前に起こっていることは、何一つと問題ではありません。
自分が集めたエネルギーが映像となり、リリースされる為の投影なので、
終わりのサインです。
この囲いの中に原因を探しても、正解を探しても、
空気を掴むことと同じことです。

そのことに気づき、その動きを止めてみる。
これが、「いまこの瞬間に戻る。」ということです。

このお話から見てみれば、自分が良いお母さんでなかったなどの、
少しずつ重なってきた後悔のエネルギーや、
母親という存在に広がる、『持つべき責任 』 とする記憶が、
お子さんの眼鏡という出来事を通して、映像となって見えました。

そして、この記憶されていたエネルギーは、
実のところ、お母さまの本心の想いでも何でもありません。
これまで長いこと人類に記憶されてバトンが渡ってきた想い。
私たちは、それをまるで自分の想いの様に抱えているのです。

これはその他、問題とされている様々な事柄に当てはまることです。
実際はこの世界に、問題など一つも、ありません。
問題と見ている視点が、問題にしてしまっています。

ですからここでできることは一つです。
これらを、いま手放すという選択もあることを知ること。
記憶に飲みこまれずに、その動きを止めてみる。
静寂して見守る(参加しない)ということができます。

もう一度繰り返しますが、
これが、「いまこの瞬間に戻る。」ということです。

外側の世界にある何かが原因と見ていれば、
外側の世界へと、原因を作り続けます。
世界を理由に自分や誰かを責めることも、
思考の納得する答えを探し続けることも、
いつまででも、こころのひとりチャットは出来てしまいます。

ぺらぺらと話せるのは、こころが過去未来に居るからです。
では何ができますか。

こころが、定位置である内に戻ってくればいいのです。
そうすれば今この瞬間にいます。先ほども書いたように、
ノーコメント、語ることは一つと現れません。

これは、これまでの癖のようなもので、
私たちが慣れ親しんできた生き方ですが、
終わりにしたければ、いつでも終わりにできるのです。

これからは、自分の意思で自分の世界を楽しんで下さい。
記憶に操られることから解き放たれて良いのです。
地球も一斉リニューアルです。
私たちも一斉リニューアルです。
自分ももちろん、他の誰も、責める必要はもうありません。

外へ飛び出てしまったなら戻ってくれば良いのですから。


外側の世界へ向かう心に気づき、この瞬間にあることが、
本質と共にあるということです。
これが、何よりも輝く叡知と共にあるということなのです。