Open the Doors on both sides

「両方の扉を開ける」

私たちは神のような存在でありながら、
人間の特権である楽しむことを、長いこと封印して暮らしてきました。
楽しみを我慢するとまではいかなくても、
それにほぼ近い認識で生きてきたのです。
少し荒っぽく表現すれば、一握りの成功者と残りの敗者という世界を作り、
物質世界の力を強制的に高めてきた時代が長いこと続きました。

そしてここからは、地球の新しい冒険のはじまりです。
200年以上続いた物質ありきの時代は幕を閉じたので、
時代が変わったばかりの今は、前の時代の大掃除、
そして新しい生き方を広め定着させる時期です。

望むすべての者が、新しくアップロードを行っている最中なので、
少しの間は型にぴったりと収まらない感覚も続くと思いますが、
人間はとにかく慣れるのには早いので心配はいりません。

このアップロードは高い次元の自分に委ねているので、
タイミングも計画もすべて完璧に整っています。
見えない働きによって、少しずつ新しい自分へと飛び移っていて、
後退しているように感じることがあっても、
実際は少しずつ前進しながら、新しい自分へと生まれ変わっています。

これに合わせて外側に見える世界も変わっていくわけですが、
具現化のスピードは、
それぞれがどこまで宇宙に委ねられているかに大きく関わっています。

ここで話している宇宙とは内側の無限の世界のことですが、
高い次元の自分が用意したどんなに素晴らしい智慧も、豊かさも、
この世界を生きている自分が受け付けなければ、配達は中々進みません。

例えていうならば、高い次元では右に進むことを促していても、
この世界の住人である自分が、
記憶にひっぱられて左に行こうと頑張っていれば、連動していないので、
何故だかわからないけれど違和感を感じる。となります。
なので具現化(配達)をスムーズに進めるためには、
こころの喜ぶ方向に正直でいること。
頭とこころが一緒になって連動することがサクサクと進む差し油となります。

無限の宇宙。本源である原動力からあふれるひかりの中に、
上の扉と、その又下にある扉、2つのドアがあるとイメージすると、
上の扉が内面世界に広がる高次元の自分。
下の扉が外側世界の、考える心である自我・記憶の自分。
この両方が扉を開けることで風通りが素晴らしく良くなるわけです。

これまでの様に、自分が努力しない限り何も与えられないと観れば、
どんなに高次元の扉から贈り物があっても、そこからは何も受け取れずに、
いつまでも与えられない世界を生きてしまいます。
足りないと思うのは、満杯を目指しているからです。
無理だと感じるのは、限界を見ているからです。
不幸だと思うのは、決まった形の幸せを求めているからです。

もしも満杯を目指さなくなれば、足りていることに気がつきます。
限界を見なくなれば、無理というラインは生まれません。
決まった形の幸せから離れれば、自分の思う幸せをいつでも見つけられます。
ちょっとした視点の違いで記憶の雨雲は流れ、外側の世界の扉も開くのです。

どんなに綺麗な小鳥の歌声も、
こころが落ち込んでいる時に聞くのなら耳には入りません。
明るい気持ちで聞くときにはじめて、自然の音や色を美しむことができます。
自然を美しむことが出来た時。
人間も同じくして自然の一部であることを理解します。
そして自分も変わりなく美しい存在であることに気づく。
このように、こころの在り方は世界の見え方を大きく左右します。
こころが何時でもあるべき姿で居られるために、
記憶に主力を持たせないことは私たちに出来る一番最初のことです。
そうあることで、内側と外側の世界が息を合わせて連動することとなり、
風通しは素晴らしく良くなります。

いつも話していることですが、世界は完璧で自分も完璧であること。
そして、自分に必要なものすべて与えられていると観ることは、
どんな時も私たちに大きな力を運んでくれます。
記憶にひっぱられて、
日常にあるいくつもの幸せを見逃すことはとても簡単ですが、
その時こそ、真実か。実在のない記憶か。を見極めることができるのです。

その上で、自分がほんとうに見たい世界を観ることを決めると良いです。
これからは心も頭も限定に押さえて生きる必要はありません。
ぜひとも人生を望むままの豊かなものへと導いて欲しいと思います。

私たちの大半は、本当の人生の楽しみ方を知らずに暮らしています。
それは人間を罪に導くとする欲望や感情を抑える考え方が、
人類に深く根付いていたからです。
これは、宗教などに全く興味を持たない者にも広がる全体の記憶です。

物質や欲望を求める自分や、幸せを手にした自分を否定するという心は、
この記憶から生まれています。幸せを得ると他の幸せを失うという怖れや、
感情に揺さぶられる自分を恥じる。など。
あれはだめこれはだめと抑え込めば、
あるべき姿からはどんどん逸れていきます。

自分は受け取るべきじゃない、楽しむべきじゃない。
自分には不釣り合いと感じる。この程度がちょうどいい。等と、
私たちは自身の価値を相当低く見積もってきました。
自分自身がラインを作りそこから上へは飛び越えないようにしてきたのです。
これでは本当に欲しいものを望むどころか、
何をしたくても最初からあきらめる他ありません。
これが“一握りの成功者と残りの敗者”という形を作ってきた軸となる記憶で、
世界はなだらかにはなりませんでした。

なのでまずは私たち一人ひとりが、
神同等の力を持った崇高な存在であることを、
しっかりと再認識して欲しいと思います。
このことは、何を学ぶよりも前に私たちが認識すべきことです。

誰はすごくて誰はだめなど、同じ人間同士が語れることではありません。
私たちは、それぞれが自分のために選びここに居るので、
どんな環境にある者も立派に同じ地球人をしていることに変わりないのです。
どの神が一番素晴らしいとは語れないように、
神同等の力を持った私たちを比較する値はどこにも見当たりません。

本当は、ひとりひとりが他の誰を気にすることなく幸せで居て良い。
自由に自分の望みや感情を楽しむ。

むしろそうあるべきなのです。そうなることで世界に幸せが広がるからです。
一人一人が自分の幸せを自分で満タンにしてこそ、世界は上手く回る。
とてもシンプルなこころの計算式です。

みんなが好き自由に生きる世界になれば、滅茶苦茶になってしまうのでは。
と疑問が沸くかもしれませんが、そんなことはありません。
これまでに歩んだ進化が、私たちをそうはさせません。
闇の制限を観てきたからこそ、
誠の自由を楽しむことがやっとできるようになったのです。
これまでが自然な流れを止めてきました。
これからは自然な流れに堂々と身を任せて生きることが出来ます。

私たちは起きている時に身体として物質世界の住人としてあり、
眠っている時には非物質世界に戻ります。
そうであるならば、起きている時に見える景色を楽しむことが、
起きている時にできることです。
そこに執着や期待があれば苦しみは生れますが、
〈私たちはこの身体を限定で楽しんでいる実在なき存在。〉
ということを理解する心と頭があれば、執着とはなりません。
これこそが真の人生の楽しみ方です。

これから精神主義になろうが、物質も続いていきます。
いま見えている景色を楽しむことが、今必要な気づきへと繋がるので、
望むものを求め、記憶の自分に怯えることなく楽しんで下さい。

新鮮なトマトを望むのも、素敵なパートナーを望むのも、
一冊の本を望むのも、豪邸を望むのもすべて同じ望みです。
出所は全く同じ無限の宇宙にあるものを、
これまでも、すべて自分自身で叶えてきました。

頼みやすいもの、頼みにくいものがあるのならば、
それは頭の中にだけ記憶された値札だけの違いです。
価値を気にして頼まないのであれば、自分に正直ではありません。
これからは、記憶にひっぱられてランクを下げる必要はありません。
叶えるのは自分自身なので、どうせ駄目でしょうと囁いてきたところで、
それはこれまでの限定世界に生きるための一人芝居の名残です。
言いたいことは勝手に言っててね。ときっぱりとスルーでOKです。

宇宙は私たちに、記憶から自由になって、
本当に望むものを選んで欲しいと願っています。

ひとりの者の風通しが良くなることが、全体の風通しになるからです。
無限の宇宙にあるもの全て、なんでもどうぞと言っているだから、
自分の頭の中だけで記憶された価値で決めることももうありません。

古い記憶には縛られずに風通しを良くすることで、
世界はどんどん変わっていきます。
全体の波動が上がっているので、今までよりも早く違いが現われます。

物質世界に力を持たせずに、物質も楽しむ。
進む方向は、自分の意思で選べる時代。

これが、これからの私たちの向かう方向です。
何かを得ることや、幸せを感じる事、楽しむことは、
それはだめ、あれだめという囲いのなかから、
本当は、私たちは常に自由だという事を知るための経験でもあります。
ネガティブから学ぶ経験もありますが、それはもう十分してきました。
では、これからは楽しむことで喜びを学ぶ時代として生きましょう。